#地域#国際#歴史#日本#地図
日系薬品業者の大陸進出。
同業者組織と薬事制度から解き明かす。
網島 聖佛教大学 歴史学部准教授
Introduction
近代以降、日系薬品業者がいかにして大陸に進出し、地盤を築いていったのか。人文地理学の観点からさまざまな同業者の都市集積と制度・組織について研究する網島 聖准教授が、当時の史料から詳細に読み解く。
新市場を求め、満州に進出した薬業者の足跡を追う
都市の一地区に同じ職種の業者が集まった「同業者町」は、現代でも日本各地でその名残を見ることができる。「例えば大阪では、薬種業者が集まる道修町、陶器の西横堀、材木の西長堀や小林町、菓子問屋の松屋町、呉服の本町など、多くの在来産業の同業者町が第二次世界大戦後まで存続してきました」。そう説明した網島 聖准教授は、人文地理学の観点から、同業者町という都市集積がどのような制度や組織と関わりながら発展し、近代日本の産業化を牽引してきたかを研究している。
明治時代になると、日本の朝鮮半島・中国侵攻に伴って業者間のネットワークやそれに関わる制度もそのスケールを国外に広げていく。網島准教授は薬品業に焦点を当て、日系薬品業者の満州進出の足跡を追うとともに、そこでどのような薬事制度上の問題に直面し、どのように解決しようとしたのかを詳らかにした。
「薬品業者は当時、制度上いくつかの区分に分かれていました」と解説した網島准教授。それによると、まず「第1版日本薬局方」(1885年)、「薬品営業並薬品取扱規則」(1889年)といった規制の下で認められた医薬品を取り扱っていたのが、薬局(薬舗)である。新制度では西洋の薬事制度に倣い、薬剤師が調合したものだけが医療行為に用いられる医薬品として認められていた。それ以外に従来から和漢薬を作っていた薬種商は、既得権益が認められる形で残された。一方、こうした薬事制度の枠外に置かれたのが、売薬商だ。売薬・配置薬は各地の業者が秘伝のレシピで調合した民間治療薬で、制度上無効無害とされ、正規の薬とは認められなかった。さらに明治40年代以降になると、「日本薬局方」に未掲載の新規開発薬品「新薬」の開発や輸入が盛んになり、製薬業者も台頭してくる。
「そうした中で、先駆的な中小の問屋や卸売業者が満州に進出していきます。明治40年代、先んじて海を渡ったのは国内で認められなかった売薬商たちでした」と網島准教授。当時大陸では、医薬品(局方品)よりむしろ売薬のような民間治療薬の方に需要が集まり、軍需もあって一部の売薬業者が大陸進出に成功。満州に地盤を築いた。
満州の日系薬品業者が団結し、既得権益を守るために奮闘
満州に渡った薬事業者たちは、現地でどのように事業を展開したのだろうか。網島准教授は、満州医科大学医院薬局内にあった満州薬剤師会の会誌『満州薬報』(昭和12~15年発行分)の記述内容を分析し、日系薬業者の満州での様相を明らかにした。
「1939(昭和14)年12月1日発行の『満州薬報』第141号に掲載された『在満日系薬剤師名簿』によると、当時満州にいた日系薬剤師は596名。そのほとんどが主要な都市に集中しています」と言う。とりわけ南満州鉄道沿線都市への集中が顕著で、奉天市(現・瀋陽市)(183名)を筆頭に新京市(現・長春市)(104名)、哈爾濱(ハルビン)市(43名)、撫順(ブジュン)市(29名)と続く。集中した理由は、満鉄附属地は権益が保護されていたからだ。「最初に進出した売薬商たちもこの地にしか定着できず、現地中国人には訴求できていなかったことがうかがえます」。加えて名簿には、武田長兵衛商店や第一製薬、塩野義商店、三共製薬など後発の日系製薬業者の記載もあり、日系人相手の限られた市場がすでに飽和状態になっていたことが見て取れるという。
これに追い打ちをかけるように1940(昭和15)年以降、満鉄附属地の治外法権が撤廃され、既存の事業者は既得権益を失う危機に瀕する。「そうなれば新規参入業者の流入が拡大し、過当競争によって既存事業者の営業基盤が揺らぎかねません。それに対抗するため、奉天市で薬業同業組合が、また各地に薬剤師会の支部がつくられます。薬品業者や薬剤師たちは団結して後発業者の新規参入に関する規制を厳格化するよう領事館に求めていきました」。新規参入者が増えれば、薬の不当濫売や品質低下を招くことにもなる。それを防ぐため、既存の日系薬業者たちは満州国の薬事取引制度を内地と同様の日系薬業者に都合の良いものに改変しようとした。例えば満州と北部中国が接する「日満支」地域に経済ブロックを形成し、中国からの新規参入者を排除しようとしたのもその一つだった。
「新規参入業者を制限しようとしたのにはもう一つ、満州国内で薬剤師や既存事業者の後継者を育成していたことも関係していました」と網島准教授。現地の大学や薬学校でも日本薬局方に基づく薬剤師の養成が進められており、こうした薬剤師や薬品業者の新世代の働き口を用意する必要もあったのだ。
しかし制度改正だけでは既得権益を守り通すことはできない。そこで新たな市場開拓先として目が向けられたのが、隣接する中国の華北五省だった。
華北進出を目指した日系薬品業者がぶつかった壁
網島准教授は、日中戦争期の日系薬品業者の華北進出と当時の薬事制度についても追求している。それによると、当時の中国は、日本とは異なる薬事制度や中国独自の薬業連鎖店が強固な参入障壁として立ちはだかっていた。そのため日系薬事業者の進出は、天津や北京、張家口、青島など主要都市に限られており、とりわけ天津ではすでに市場は飽和状態になっていた。「日系薬業者の間では、関税率の引き下げや度量衡・金融制度の改変など、取引に関わる制度の改変の必要性が強く認識されていました。またこうした視点の背景には、中国内で育てた薬剤師の働き口をつくりだそうとする意図もうかがえます。つまり華北五省でも、多くの点で満州国と同じ様相を呈していたことが見えてきました」と説明した。
このように、近代日本の産業発展を牽引する役割を果たした同業者の制度・組織は、日本の対外進出とともに植民地や海外にも持ち込まれた。しかし、このことは既に存在していた現地の制度・組織との間でさまざまな軋轢や矛盾を生むことともなった。「帝国主義的な対外拡張や支配は国家や大資本の理屈のみで行われていたわけではありません。都市に集まる個々の中小零細の業者たちの営みもそれに深く関与し、支えていたと考えています」。近代日本の産業発展の未だ知られざる実態を明らかにすべく、網島准教授は研究を進めている。
BOOK/DVD
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表彰
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網島 聖/ 佛教大学 歴史学部准教授
AMIJIMA Takashi
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