#仏教#歴史#京都
鎌倉期の新仏教を再考。
「法難」事件の真相に迫る。
坪井 剛佛教大学 仏教学部准教授
Introduction
「新仏教」が登場した鎌倉時代。その存在は異端と見なされ、思想弾圧を受けたと考えられてきた。坪井 剛准教授は「法難」事件を再検討し、事件が発生した要因が思想面だけではなかったと主張する。
法然を流罪にした歴史的事件は思想弾圧ではなかった?
法然(浄土宗)や親鸞(浄土真宗)、栄西(臨済宗)、日蓮(日蓮宗)など、現代にも続く仏教の宗派が次々と登場した鎌倉時代。長い間歴史の教科書には、これらの「鎌倉新仏教」が中世を代表する宗教として記述されてきた。だが、中世仏教史の研究が進展するとともに、この歴史認識に疑問が示されてきた。「鎌倉時代には、「新仏教」の勢力は極めて小さなものに過ぎず、延暦寺や興福寺をはじめ伝統的な大寺社を中心とした「旧仏教」、すなわち顕密仏教が依然として大きな影響力を持っていたことが改めて認識されています」と、坪井 剛准教授は解説する。
一方で、法然や親鸞ら「新仏教」諸派はあくまで「旧仏教」=顕密仏教に対する「異端」だったと位置付け直された。その結果、「法難」事件に対する捉え方も変化してくる。以前は、「旧仏教」側が「新仏教」の勢力拡大に危機感を抱いて弾圧に及んだと理解されていたが、上述のように「新仏教」と「旧仏教」の力関係が再認識された結果、「新仏教」の思想に対する弾圧だったとの見方が主流になっていったのだ。「建永の法難」事件もその一つである。
事件の発端は建永元(1206)年12月、法然の弟子の安楽房遵酉と住蓮房が起こしたスキャンダルだった。両者が起こした事件の詳細については、史料により記述が異なるため、確定させることは難しいが、後鳥羽上皇に仕える女官数名を巡って、トラブルが起きたとされている。密通事件後、朝廷によって安楽房遵酉と住蓮房が死罪、法然、親鸞ら7人は流罪となった。
その前年の元久2(1205)年から建永元(1206)年にかけて、興福寺が2回にわたり、法然の唱えた「専修念仏」を批判し、念仏停止を求める訴えを起こしていたため、法然の流罪は密通事件を口実にした思想弾圧だったと考えられてきた。ところが近年、これは事件に激怒した後鳥羽上皇による「私刑」であり、思想的な問題は関係なかったとする説が提唱されると、研究者の間でにわかに議論が活気づきました」。坪井准教授も、興福寺による訴訟過程を丹念に追い、新たな考察を提示している。
「第1次訴訟は「法然保護」の方針で処理されており、朝廷は法然の処罰に消極的だったことがわかります。ところが第2次訴訟に入ると、朝廷は一転して興福寺側の訴えを認め、法然門弟の念仏勧進を停止する「宣旨」を発給したものと推測されます。その矢先に法然門下の2人がスキャンダラスな事件を起こしたために門弟全体の問題と捉えられ、法然の責任問題にまで発展したのではないでしょうか」と坪井准教授。「二転三転する朝廷の対応を見ると、専修念仏に対して一貫した方針があったとは思えません。このことからも朝廷の処置は興福寺の強い奏上に応じたもので、朝廷側には思想を取り締まる目的がなかったことがうかがえます」と分析する。
法然没後最大の法難事件「嘉禄の法難」の真相とは
もう一つ、法然没後最大の法難とされる「嘉禄の法難」事件についても坪井准教授は改めて検討している。
騒動が起こったのは、法然が亡くなって約15年後の嘉禄3(1227)年。定照という天台宗の僧が、法然の論書『選択集』を批判した『弾選択』を著したのに対し、法然の弟子の隆寛が反論書『顕選択』を書いたことに始まる。これに怒った定照が延暦寺の山門衆徒に蜂起を勧め、それに応じた衆徒が法然の墓所を破却した上に、法然に連なる46名のリストと共に専修念仏の禁止を朝廷に願い出た。その結果、専修念仏の張本人として隆寛・幸西・空阿弥陀仏の3人が流罪になり、証空も処罰対象とされた。
この事件も近年までは朝廷による思想弾圧だと理解されていたが、それだけでは説明がつかないことがあるという。処罰された者たちの思想的特徴が一致しないのである。一方で坪井准教授が注目したのは、処罰された者たちが皆、青蓮院門跡と関わりがあった点だ。
青蓮院門跡は比叡山延暦寺の三門跡の一つである。当時、門主(住職)を務めていた慈円は、法然に帰依した九条兼実の弟にあたり、流罪になった法然が赦免された後、自ら手配して法然を青蓮院門跡管轄下の「大谷の禅房」に住まわせた。「ここが専修念仏者たちの拠点になったことは想像に難くない」と坪井准教授。また法然の墓所も青蓮院門跡の管轄内にあり、専修念仏者が集まる拠点だったと考えられている。山門衆徒が法然の墓所を襲ったのは、そのためだったのだ。墓所の破却は六波羅の武士たちが制止に駆けつけたため未遂に終わったが、法然の遺骸を鴨川に流す計画さえあったという。
こうしたことから青蓮院門跡は、法然はじめ専修念仏者たちに近い存在として、以前から延暦寺側に目を付けられていた可能性が高い。「朝廷自身は専修念仏禁止を積極的に推進していたわけではなく、あくまで延暦寺衆徒の蜂起を回避するために、彼らの主張を追認するばかりでした。つまり「嘉禄の法難」事件は、山門内の僧侶たちのセクショナリズム、縄張り争いによって引き起こされた側面が強く、当時の国家による思想弾圧とするのは疑わしいと思われます」
新史料から鎌倉期の新仏教形成の謎を追う
現在坪井准教授は、新たな研究に着手している。きっかけは平成26(2014)年、愛知県にある西光寺の地蔵菩薩立像の胎内から数々の納入品が発見されたことだった。その中に「一行一筆結縁経」という珍しい経典があった。これは、一行ごとに異なる者が写経し、行末に筆者の名前が記されたもので、法然や栄西といった著名な僧をはじめ数百名に及ぶ名前が確認されている。「これらの史料から「新仏教」の母胎となったとされる「聖」(=民間の宗教者)たちの人間関係を整理・検討し、なぜ鎌倉期に新仏教が形成されていったのかを捉え直したい」と坪井准教授。今後の研究によって、鎌倉期の仏教史の新たな一面が浮かび上がるかもしれない。
BOOK/DVD
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教員著作紹介
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「墓所から聖跡へ-鎌倉期の専修念仏と法難事件」『中外日報』2021年11月5日
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「浄土宗開宗への道」『華頂』2021年12月
坪井 剛/ 佛教大学 仏教学部准教授
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