#国際#歴史#芸術
戦後アメリカでスターになった
ナンシー梅木の足跡をたどる。
大場 吾郎佛教大学 社会学部教授
Introduction
戦後アメリカのエンターテインメント界で、アカデミー賞やエミー賞などを手にした日本人女性・ナンシー梅木は、なぜそれほどの成功を収めたのか。大場吾郎教授は、時代背景や社会状況をひも解きながら、ナンシー梅木の足跡を追った。
戦後アメリカの
エンターテインメント界で
名だたる賞に輝いた日本人女性がいた
2024年のアメリカ・アカデミー賞では日本の『ゴジラ-1.0』や『君たちはどう生きるか』といった作品が栄誉に輝いた。近年のアメリカのエンターテインメント界において、日本をはじめアジア各国の俳優やアーティストの躍進も目覚ましいものがある。だが今から60年以上も前に、アメリカでスターになった日本人がいることはあまり知られていない。それがナンシー梅木である。
梅木は元々日本のジャズシンガーで、1955年に渡米し、本名のミヨシ・ウメキで芸能活動を行った。驚くことに彼女は、映画のアカデミー賞とテレビ番組のエミー賞を獲得し、ブロードウェイ演劇のトニー賞にもノミネートされている。つまりエンターテインメントの各分野での最高峰といえる賞を受賞、あるいはその候補になったのだ。
「なぜナンシー梅木は、アメリカでこれほどの成功を収めることができたのか?」
そう疑問を口にしたのが、大場吾郎教授だ。大場教授は、日本国内のみならずロサンゼルスやハワイにも足を運んで集めた膨大な資料をひも解き、梅木の人生の軌跡を丁寧かつ詳細にたどった。そして戦後期に日本からアメリカへ渡った芸能人の活動とその意味を明らかにし、それを歴史的文脈に位置付けて考察を試みた。
着物姿でジャズを熱唱
アメリカで注目を集めたナンシー梅木
梅木は1929年に北海道・小樽で生まれ、戦後の占領下、進駐軍のクラブやキャンプでステージに立ち始めた。1950年代初頭に起きた空前のジャズブーム時にはトップボーカリストとして人気を博し、1955年、3か月間公演するつもりでアメリカへ渡る。
渡米後しばらくして、人気音楽バラエティー番組に出演。着物姿でジャズナンバーを歌い、全米を驚かせた。それを機にテレビへの出演依頼が殺到し、日本へ帰国するひまもないほどの売れっ子になった。
「歌の実力もさることながら、着物で歌うスタイルと素朴で親しみやすい彼女のキャラクターが、アメリカの人々に関心と好印象につながっていたことは、梅木自身も十分意識していました」と大場教授。興味深い点として、梅木がテレビやクラブに出演する際には意識的に飾り気がなく、やや頼りなげで、拙い英語を話す日本人女性像を打ち出していたことを挙げた。「当時アメリカ人が日本人女性に抱くステレオタイプなイメージを理解し、それを自ら体現していたということでしょう」
その後梅木は、次々に活躍の場を広げていく。演技経験はほとんどなかったが、ハリウッド映画『サヨナラ』に抜擢されたのもその一つだ。彼女が演じたのは、戦後日本に駐留していた米兵と結婚した、いわゆる戦争花嫁だった。「献身的に夫の世話を焼き、従順で慎み深い、まさに当時のアメリカ人男性のファンタジーが込められた日本人女性の生き写しのようなキャラクターでした」。1957年12月に公開された『サヨナラ』は大ヒットとなり、演技を絶賛された梅木は1958年、アジア人俳優として初のアカデミー賞受賞に輝いた。同年にはまた、テレビ番組での活躍が認められ、エミー賞にも選ばれている。
1958年には演劇界の大物リチャード・ロジャースとオスカー・ハマースタインの新作ミュージカル『フラワー・ドラム・ソング』で主役を務めることになり、ブロードウェイの舞台にも上がった。この作品で梅木はトニー賞にノミネートされ、1960年代には主にテレビドラマなどで活躍した。私生活では、29歳でテレビ番組のディレクターと最初の結婚をするが、後に離婚。1968年には映画監督と再婚し、1970年代初頭には事実上引退して家庭に入るが、夫と死別。1980年代以降は所在や消息が全く掴めなくなる。そして2007年になって梅木が死去したという訃報が、アメリカの有力紙によって一斉に伝えられた。
冷戦期に理想的な日本人女性を体現し
アメリカ人から愛された
梅木がアメリカで愛された理由について、大場教授は「時代や社会的要因が大きい」と分析する。ナンシーが渡米した1950年代半ばのアメリカでは、冷戦体制のもと日本は重要な同盟国、パートナーと位置づけられ、日本人に対する感情も戦時中のネガティブなものから劇的に好転し、親日ムードが漂っていた。また、多様な民族や文化が共存する国であることを国際的に訴えようとしたアメリカの姿勢を反映して映画などの大衆文化でも『サヨナラ』のように、異人種間の恋愛を扱う作品が増えていた。
そんな中、梅木は異文化をテーマとした作品への出演者として想起されやすい俳優の1人、さらには人種融和の象徴的存在の1人にまでなっていたと考えられる。ただ映画やドラマで与えられる役は芸者など、白人男性にかしずく日本人女性や東洋人女性役が多かった。「自分には従順な日本人や東洋系女性の役しか与えられないこと、そしてアメリカで俳優を続けるにはそのような役を演じ続けなければならないと諦観していたようだ」
その後1960年代中盤以降、アメリカでは公民権運動やベトナム反戦運動、女性解放運動などの広まりを受け、保守的な社会や既存の価値観に反発する動きが活発化していく。メディアでも、マイノリティの描写が見直されはじめ、梅木の役割も終わりを告げる。大場教授は「白人によって理想化された役を演じただけという批判はつきまとうものの、梅木はアメリカの映画界で人種の壁を破った先駆者の1人として歴史に名を刻んでいる」と言う。
戦後、アメリカで活動した芸能人は、梅木だけではない。田中絹代に始まり、美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみなどといった錚々たるスターたちが、アメリカに渡った。1963年、坂本九のヒット曲「上を向いて歩こう」が「SUKIYAKI」と改題され、『ビルボード』のヒットチャートで第1位を獲得したり、1970年代後半、ピンク・レディーが全米進出を果たす。しかし、それらの多くは期間限定の活動であり、本格的にアメリカに根を張って活動し、アメリカ人に受け入れられたのは、ナンシー梅木をおいて他にいない。いまやインターネットで誰もが作品を世界に配信できる時代になった。それとはまったく状況が異なり、日本の芸能人にとって海外進出の壁が非常に高かった時代に、エンターテインメント産業の中心地・アメリカでスターになったナンシー梅木は、やはり貴重な存在だったといえる。
BOOK/DVD
このテーマに興味を持った方へ、
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『イエロー・フェイス:ハリウッド映画にみるアジア人の肖像』村上由見子/朝日新聞出版
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『さよならアメリカ、さよならニッポン』マイケル・ボーダッシュ/白夜書房
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『テレビジョンの文化史―日米は魔法の箱にどんな夢を見たのか』小代有希子/明石書店
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『サヨナラ』マーロン・ブランド、ナンシー梅木 (アメリカ・1957)
教員著作紹介
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『韓国で日本のテレビ番組はどう見られているのか』人文書院
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『テレビ番組海外展開60年史:文化交流とコンテンツビジネスの狭間で』人文書院
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『図説日本のメディア[新版]伝統メディアはネットでどう変わるか』NHK出版
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『放送コンテンツの海外展開:デジタル変革期のパラダイム』中央経済社
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『戦後期渡米芸能人のメディア史:ナンシー梅木とその時代』人文書院
表彰
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学術奨励賞 佛教大学 2009/10
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学術賞 佛教大学 2010/10
メディア等掲載
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レコード・コレクターズ(2024/8)
大場 吾郎/ 佛教大学 社会学部教授
OBA Goro
[職歴]
- 2006年4月~2008年3月 京都学園大学・人間文化学部・専任講師
- 2008年4月~2015年3月 佛教大学・社会学部・准教授
- 2015年4月~現在に至る 佛教大学・社会学部・教授