#歴史
宋代の海港都市・明州の
都市空間を復元する。
山崎 覚士佛教大学 歴史学部教授
Introduction
中国・宋の時代、銭塘江が流れ込む杭州湾南岸の東端に、明州という海港都市があった(現在の浙江省寧波市)。山崎覚士教授は、この明州の都市空間を描き起こした復元図を作成。当時の街のあり様から人々の暮らしまで鮮やかに浮かび上がらせた。
歴史書、古地図など
数多くの史料を突き合わせ
宋代・明州の都市空間を
地図に描き起こす
唐代から南宋時代にかけて(8~13世紀)、現在の中国浙江省寧波(ニンポー)市は、明州という名の海港都市であった。宋代には東アジア海域交易の玄関口として発展。日本との間も貿易船が往来し、物資だけでなく、文化や仏教の交流があったことが知られている。
山崎 覚士教授は、そんな交易で賑わう宋代・明州の都市空間を地図上に復元するという独創的な研究を行った。宋代の都市研究は少なくないが、その多くは国都に焦点が当てられており、地方都市の空間を詳細に解剖した復元図は、他に例を見ない稀有な成果だ。
明州の復元図を作成するにあたって、山崎教授は数多くの史料をひも解いた。『乾道四明図経』をはじめとする6種類の宋元地方志、明代の『嘉靖寧波府志』、明末清初に私纂された地方志『敬止録』、清代の『四明談助』などの歴史・地理書で、明州(寧波)の地理や地名を考証した。『宝慶四明志』の挿図や民国期の『寧波市全図』、アメリカの議会図書館蔵の『寧郡地輿図』など、歴代の地図史料も多く検証。これら多様な史料を突き合わせ、一つの地図にまとめあげた。
「明州のまちをより立体的に理解することに役立ったのが、『開慶四明続志』の記事でした」と山崎教授。この文献の第7巻『楼店務地』という条には、明州城内の各区域が三等九則にランク付けされており、当時の地価をうかがい知ることができる。それらは、各エリアの機能や住民の生活を推し量る貴重な手がかりとなったという。
そうして完成した「宋代明州城全図」は、当時の都市のあり様を鮮明に描き出すだけでなく、そこでどのような人々がどのように暮らしていたのか、その姿までありありと浮かび上がらせた。
地図から浮かび上がった
明州の街並み、人々の暮らし
復元図によると、明州は東西2km余り南北4km弱の卵型をした都市だった。城内は大きく東北・東南・西北・西南の四つのエリアに分けられ、それぞれに特徴を備えていたという。
まずまちの東端、甬江と奉化江、慈渓江という三つの川が交わる三江口に位置する東渡門から広がるのが、東北エリアだ。「ここは『県治』といって、現代の県庁のような区画です。東渡門から西へと続く大通りには、たくさんの商店が立ち並び、賑やかな街区でした。『楼店務地』によると、地価のランクが高く、社会的身分の高い人々が多く暮らすエリアであったことが見て取れます」と山崎教授は説明する。
次に東渡門を南に下ると、来安門、そして霊橋門が見えてくる。霊橋門の北側には、「市舶司」という貿易関連業務を担う役所が置かれ、ここが外国との交易の玄関口だったことがわかる。「港には、日本や東南アジア・アラビアなどから来た商船や、使節が乗った朝貢船が数多く停泊していました。そんな南西エリアには、イスラーム系の商店『波斯団』や、イスラーム寺院『回回堂』など、アラブ・イスラーム系商人が集まる拠点があり、異国の雰囲気が漂っていました」と言う。霊橋門を西に進むと、今度は2本の水路に囲まれた逆三角形の街区に出る。ここには邸宅や貸家、寺院が立ち並び、中級階層の庶民が暮らす住宅街になっていた。
そのさらに西南には、月湖という名の湖があり、湖を中心に経済的に困窮した下層民が多く暮らしていたという。「東渡門近辺には、生活用水を得るための井戸がありましたが、下層民はそれを使うことができません。代わりに湖の水を利用するため、この周辺に住んでいたと推察されます」。一方で、官僚など上層民の邸宅も作られ始めており、このエリアで都市開発が進んでいる状況も見えてきた。
最後に月湖の北側にある北西エリアには、軍隊の兵士たちが住む「軍営」が多くあり、その近くには軍事訓練場「教場」がある。市民はあまり住んでおらず、商店も見られない独特のエリアだったことが明らかになった。
救済施設に軍営
宋代の都市の特徴が見えてきた
山崎教授は考証する中で、宋代の都市ならではの特徴を明州が備えていることを見出している。その一つが、西南エリアのさらに西端、望京門付近に点在する救済施設だ。復元図には、身寄りのない高齢者や孤児、身体的弱者などを収容する「養済院」や貧しい病人を収容する「安済坊」が見られる。
「宋の時代、災害や戦災、凶作などで地方の民が流民となり、その多くが都市に流入。都市には生活に困窮した人々があふれ、社会問題になっていました。その対策として、救済制度の整備が進められました」と言う。山崎教授が数々の文献をもとに試算したところによると、当時明州の下層民は、人口全体の60%にのぼったと考えられる。北宋の都・開封の下層民の割合が30~40%だったことに比べると、はるかに多い。「明州は港町で、荷役・牽夫(牛や船を牽く人夫)などの肉体労働者が必要とされており、そうした仕事を求めて下層民が多く流入したことが理由だと推察しています。地図を復元することで、こうした救済施設が街区から遠く離れた場所に、東北エリアの繁華街とは対称させて置かれていたことも見えてきました」
また宋代の都市のもう一つの特徴が、城内に軍営が置かれていたことだという。山崎教授は史料から、明州の軍営の立地や、そこに配置された兵士の数や役割などを詳細に調べた。それによると、警察業務を担当した「現役」兵士たちは、それぞれ仕事場に近いエリアに集中して居住していた。一方で、疾病・老衰した兵士、役使や雑務を担う兵士の住まいは、繁華街に置かれ、生活が優遇されていたことが明らかになった。
さらに現在、山崎教授は、宋代明州で起こった火災に注目し、新たな研究に着手している。いつ、どこで火の手が上がり、どのように延焼していったのか、復元図から読み解くことで、当時の都市の構造的特徴や機能を解き明かせるのではと期待している。
BOOK/DVD
このテーマに興味を持った方へ、
関連する書籍・DVDを紹介します。
教員著作紹介
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『成句・故事成語ではじめる中国史―古代から現代まで』法律文化社
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『東アジア海域のなかの日本』東方書店
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『瀕海之都―宋代海港都市研究』汲古書院
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『中国の歴史・現在がわかる本 第二期③ 13世紀までの中国』かもがわ出版
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『中国五代国家論』思文閣出版
表彰
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佛教大学 学術奨励賞 2009年10月
山崎 覚士/ 佛教大学 歴史学部教授
YAMAZAKI Satoshi
[職歴]
- 2007年4月~2009年3月 大阪市立大学・文学部・特任講師
- 2009年4月~2010年3月 佛教大学・文学部・准教授
- 2010年4月~2016年3月 佛教大学・歴史学部・准教授
- 2016年4月~現在に至る 佛教大学・歴史学部・教授

