#仏教#芸術#歴史

敦煌莫高窟の仏教壁画に
武則天の影響を見出す。

大西 磨希子佛教大学 仏教学部教授

Introduction

敦煌莫高窟ばっこうくつは歴代の仏教芸術を伝え、とりわけ約五万平方メートルに及ぶ壁画は「砂漠の美術館」と讃えられる。大西磨希子教授は、唐代に描かれた壁画「弥勒変相図」に注目。それらと中国唯一の女帝、武則天(則天武后)との関係を明らかにした。

01

敦煌莫高窟に描かれた弥勒変相図の謎を追う

砂漠の中のオアシス都市、中国甘粛省敦煌市。その南郊にある鳴沙山めいさざんの東麓に、世界最大規模の仏教遺跡、莫高窟はある。4世紀後半から約1000年にわたって石窟の開鑿と造営が連綿と続けられ、計492窟の石窟内部に現在もなお塑像そぞうや壁画が保存されている。仏教美術史を研究する大西磨希子教授は、1999年から毎年のようにこの地に足を運び、数々の至宝をその目で見てきた。「関心を持っているのは、作品がどのような時代背景や宗教的背景のもとで生み出されたのか。作品に影響を与えた歴史文化や当時の思想をつまびらかにしたいと思っています」と語る。それまで誰も言及したことのなかった「弥勒変相図と武則天との関係」も、そうした関心のもとで導き出された成果の一つだ。

「変相図とは、大乗経典に記された場景や説話を、動的表現を用いつつ視覚化した仏教絵画のことで、経典の名などを冠して某変、某変相ともいいます。弥勒を描いた弥勒変相図が敦煌莫高窟で最初に出現するのは隋代(581-618)ですが、唐代(618-907)に入ると、その表現は大きく変化します」。隋代の弥勒変相図は、交脚こうきゃくの弥勒菩薩像が兜率天宮とそつてんぐうにいる場景を表した「弥勒上生経変みろくじょうしょうきょうへん」。それが唐代になると、倚坐形いざぎょうの弥勒仏を主尊とした「弥勒下生経変みろくげしょうきょうへん」が出現する。この変化はなぜ起こったのか?「これまでの研究では、この変化は、隋代から唐代にかけて弥勒信仰が上生信仰から下生信仰に変化したことに由来すると説明されてきました。つまり、死後に弥勒菩薩のおられる兜率天に生まれることを願う信仰(兜率天は娑婆世界の上にあるので「上生」となる)から、弥勒菩薩がこの娑婆世界に生まれ仏となるのを待望する信仰(上にある兜率天から娑婆世界に生まれるので「下生」となる)に変化したことに由来するというわけです。しかし、弥勒菩薩の下生は仏典に五十六億七千万年後などと説かれ、遥か未来のこととされていますし、唐時代の有名な玄奘三蔵も兜率天への上生を願う上生信仰の持ち主でした。単純に弥勒信仰が唐代になると下生信仰に変化したとはいいがたいのです」と大西教授は疑問を呈する。

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武則天のイメージ戦略の産物?!

大西教授が着目したのは、「弥勒下生経変」の出現時期が、唐の三代皇帝・高宗の皇后である武則天の治世(624-705)に当たるとされてきた点だ。厳密にいえば「弥勒下生経変」の出現そのものについては、もう少し遡る可能性がある。しかし、武則天期に「弥勒下生経変」が盛んに描かれていることは事実であり、そこには武則天との関係が潜んでいるかもしれないと考えたのだ。

武則天は、病弱な高宗に代わって実権を握り、ついに皇帝となって周王朝を建て君臨した。「武則天が皇帝になる際、自らを『(この娑婆世界に)下生した弥勒仏である』と宣伝したことはよく知られています。そこで、その頃の『弥勒下生経変』には、『下生の弥勒』として皇帝位に登った武則天の影響があるのではないかと考えました」。王朝交替の易姓革命を実現させるだけでなく、女性の身でありながら帝位につくということは、並大抵のことではなかった。そこで武則天が利用したのは仏教であり、正統性を主張するために打ち出した戦略の一つが、自らを仏教的救世主たる弥勒仏だとする宣伝であった。

大西教授によると、「弥勒下生経変」の他にも、こうした武則天のイメージ戦略の産物と考えられる例があるという。その一つは、武則天期に倚坐形如来像がすべて弥勒仏に固定化されたことだ。「初唐期、倚坐形の如来像には、弥勒仏以外に優填王像うてんおうぞうも造られましたが、以降、倚坐形の優填王像は姿を消し、倚坐形の如来像は弥勒仏に限られるようになります」。大西教授はこれも「武則天が自らの正統性を標榜するために倚坐形弥勒仏の図像を天下に広く流布させた結果ではないか」と見る。さらに、弥勒仏の身長は仏典に千尺などと長大であると記されていることから、倚坐形弥勒大仏の流行にもつながっていったのではないかという。

武則天が自らにまとわせたイメージは、これだけに留まらない。大西教授は、『大雲経疏だいうんきょうしょ』や『宝雨経ほううぎょう』などから、武則天が自身を「下生の弥勒」であるだけでなく「転輪聖王てんりんじょうおう」でもあるという二つの理想的統治者イメージを併せ持つ存在としてアピールしていたと読み解いている。転輪聖王は、「仏法によって世界を統治する理想の王」である。しかも、転輪聖王は金輪王、銀輪王、銅輪王、鉄輪王に分けられるが、武則天はそのうち自らを最上位の金輪王と位置づけていた。

文献によると、武則天は尊号に弥勒の異称である「慈氏」や金輪王の「金輪」を加え、一時は「慈氏越古金輪聖神皇帝」とも名乗っていた。「これは武則天が転輪聖王の中でも最も優れた金輪王であると同時に、この世に下生し理想郷を実現する弥勒仏でもあるということを、人々に示すための政治的宣伝プロパガンダであったのではないでしょうか」。こうしたイメージは、倚坐形弥勒仏の形を借りて天下に広く発信され、「その結果、倚坐形の如来像は弥勒仏に限定されるようになり、時には大仏としても造られることになったのではないかと考えています」。

03

武則天の実際の行為が壁画に反映されたのではないか

武則天が「弥勒下生経変」に及ぼした影響を具体的に示すものとして、大西教授がはじめて指摘したのが、七宝の表現である。七宝とは、転輪聖王が持つとされる七種の宝物(金輪宝、象宝、馬宝、珠宝、女宝、主蔵臣宝、主兵臣宝)である。「敦煌莫高窟の『弥勒下生経変』を時系列に並べて見比べると、初唐の早期の壁画には七宝は描かれていません。ところが武則天の頃から盛唐にかけて、弥勒仏の手前に七宝が描かれるようになります。このような表現が見られるのはこの時期だけで、中唐期以降は弥勒仏の頭上に、雲に乗って飛来する姿で表されるようになります」。このように七宝の表現が異なる理由は、そもそも経典の記述があいまいで、七宝をどこにどう描くべきかについての手がかりとなる記載がないことに求められる。「興味深いのは、武則天が朝会、つまり宮城の正殿において、前庭に居並ぶ百官から拝礼を受け、聴政する際に、その前庭に七宝をならべていたという事実です。弥勒仏の前に七宝を陳設するという表現は、こうした武則天の実際の行為が投影され、生み出されたものなのではないでしょうか」。

他にも莫高窟に残された武則天期の壁画には、それ以前とは異なる、新たな要素が複数見出だせるという。それらのなかには少なからず武則天の影響を受けたものがあるのではないか――。現在も、壁画を調査し文献をひもときながら、武則天と仏教との関わりを探っているところだ。近い将来、敦煌莫高窟に眠る壁画の中に、また一つ、知られざる歴史の一片を見ることができるかもしれない。

2021年3月更新

BOOK/DVD

このテーマに興味を持った方へ、
関連する書籍・DVDを紹介します。

  • 『敦煌から奈良・京都へ』礪波護/法蔵館

  • 『よみがえる古文書―敦煌遺書/敦煌歴史文化絵巻』郝春文、山口正晃 訳・高田時雄 監訳/東方書店

  • 『中央アジア踏査記』スタイン著、沢崎順之助訳/白水社

教員著作紹介

  • 『西方浄土変の研究』中央公論美術出版

  • 『唐代仏教美術史論攷―仏教文化の伝播と日唐交流―』法藏館

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  • 仏教
  • 芸術
  • 歴史
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SDGsとの関わり

大西 磨希子/ 佛教大学 仏教学部教授

ONISHI Makiko

[職歴]

  • 2002年4月~2005年3月 日本学術振興会 特別研究員(PD)
  • 2005年4月~2006年3月 国立情報学研究所情報基盤研究系 プロジェクト研究員
  • 2006年4月~2008年3月 国立情報学研究所コンテンツ科学研究系 特任研究員
  • 2008年4月~2010年3月 サイバー大学世界遺産学部 准教授
  • 2010年4月~2015年3月 佛教大学仏教学部 准教授
  • 2015年4月~現在に至る 佛教大学仏教学部 教授
教員紹介